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夢の国について】【未来について】【季節を先取り】【生命の歴史


宝島は
       
  の5つの国と【フリーランド】から成り立っています。
少し考えると「国」とはなんともオーバーな表現と感じられるでしょう。
 私たちも最初はこんな表現でいいのかどうか、例えば「〇〇コーナー」とか、せめて「〇〇村」または「〇〇街」の方が良いのではないかと、いろいろ迷いました。 しかし、結論としてはやはり「国」で行きたいと言うことになりました。 なぜかと言うと、「村」や「街」などは地理的条件によって自然に形成されることが多いのに比して、「国」には「国語・言語」「憲法・法律」「貨幣・通貨」などその国特有の文化が形成され、従ってそこには、その国の人たちが共有する理念的なものが強く反映しているのではないかと思われます。
宝島で《〇〇の国》と表現しておりますのは、はっきり言って一般的な「〇〇コーナー」の事ですが、それをあえて《〇〇の国》と表現したのは、幼児、児童、男性、女性、菓子などの商品カテゴリー別のコーナー分けをするのではなく、その商品群が持つ本来の理念的なものを出来るだけお客様に伝える事が出来たら、と言う願望を込めたものです。
 それでは「国」というものがそんなに理念的なものであるのかどうか? もっと地理的、歴史的に自然発生し、むしろその要素のほうが大きいのではないか、という疑問が出てきます。

そこで、「国」って何? についてもう少し詳しく見ていきたいと思います。
  国って何?      
                       
 アメリカ合衆国、ブラジル連邦共和国、オランダ王国、バチカン市国、大韓民国、ケニア共和国、
                        
 ロシア連邦、ソロモン諸島、中華人民共和国、日本国 など、世界には色々な国名と統治形態を持った国々が存在します。 「国」と呼ぶ場合、そこには人(国民)がいて、生活するための経済があり、言語があり、過去の歴史があり、文化があり、時にはその行動規範となる宗教があります。  ただ、この「国」というレベルになると、大・小に関わらず、国民全てが同じ生活をし、同じ考え方を持ち、同じような行動を採るかというと、多くの場合違います。    この違いは、自由主義社会にとって大変重要な意味を持ちますが、反面、国民同士がお互いに関係してくる(公共)場合、そこに何等かの規制なり秩序なり倫理なりがはたらかなければ収拾がつかない結果になります。
この
統治機構として、政治が発生し、経済(経世済民)、憲法・法律、さらにそれらを普及・浸透させる役割をも担う教育やマスコミを含む各種の文化活動が構成されます。 「統治」というと、なにか国民を抑圧するようなイメージを持たれることもあるかと思いますが、「まとめて治める」という意味からすると、公共性はバラバラで無秩序では困ることは確かであり、「共通の利益のための政治」の存在理由の大きな部分です。 ただ国家としての政治形態はそれぞれの国の地理的・歴史的・経済的・その他各種の社会的条件によって様々です。 
 下の表では世界の国々を大きく6大陸に分けて、経済的・文化的側面から統計数字にまとめましたが、実質的には個別の国毎に国情や風土は違うでしょうし、項目分けすることに大きな意味は見出せないでしょうが、「世界をまとめることは大変である」ということは理解されると思われます。  よく言われる事ですが、それぞれの国の国民個人同士では理解し、打解けて親睦が図れるのに国家同士となると、どうしてこんなに意見が食い違い対立しなければならないのか、という疑問です。 後に多少詳述しますが、ここに
国家としてのその国民に対する義務的性格があり、その代表が接触する国際関係の各種の場は、しばしば各国の利害対立の場となることも理解されると思います。
              
地域別 北米州 南米州 欧 州 アフリカ州 アジア州 大洋州 合 計
国  数 23 12 51 54 38 14 192
主要言語 英  語 13 2 3 23 9 14 64
スペイン語 10 9 2 1 0 0 22
フランス語 2 0 7 26 1 1 37
ポルトガル語 0 1 1 5 0 0 7
アラビア語 0 0 0 12 12 0 24
その他の語 1 6 46 33 29 15 130
通貨単位 ド  ル 14 1 0 3 2 9 29
ペ  ソ 3 4 0 0 1 0 8
フ ラ ン 0 0 2 20 0 0 22
ユ ー ロ 0 0 17 0 0 0 17
そ の 他 6 5 33 29 35 4 112
統治形態 共 和 国 10 12 31 47 19 6 125
王国・公国 0 0 10 3 6 1 20
2 0 0 2 7 0 11
そ の 他 11 0 10 2 6 7 36
国民総所得
GNP
10,000以上 3 0 19 0 6 2 30
10,000〜5,000 4 2 1 1 3 0 11
5,000〜2,500 8 4 9 4 3 0 28
2,500〜1,000 4 5 7 7 5 6 34
1,000以下 3 1 9 37 14 3 67
※上記資料は国連統計年鑑を参照したものですが、ロシア連邦とNIS諸国は旧ソ連圏ということで欧州に算入
  しました。   国民総所得の単位は米1ドル/一人当たりですが、不明国もあります。
                       
 上表で英語、フランス語、スペイン語などが多くの国で使用されているのは、明らかに植民地時代の名残が色濃く残っているのが解りますが、独立後もそのまま国語として使用されているのは何故でしょうか?  後を継ぐ為政者は民族のアイデンティティを求めて独自の母国語を復活したいと思うでしょうし、国民もそうありたいと願う事が容易に想像できます。  でもそうならなかったのは何故でしょう?  植民地化を進めた国はいわゆる「先進国」で工業化をはじめ、経済、文化その他各種の社会制度ともに進んでおり、いったん味わった文明の魅力、その文明の継続を可能にするコミュニケーションの手段である共通の言語を手放すことが出来なかったと推察されます。 
国民所得については「21世紀の課題」で多少細かく触れていますが、
一人当たり国民総所得で10,000/米ドル以上を確保する国が世界で30ヶ国(15.6%)とわずかで、さらにそれに続く所得階層の国が少なく、断層があるという問題があります。  これは、世界の国々の人達が、同時に裕福で健康的で文化的な生活を営むという人類の理想の姿を実現させるためには、段階をおって、ひとつづつ課題をクリアしていくだけでは、いつまでたっても格差を解消することは難しいことを意味しています。 先を行く国はますます先に進むからです。  ただし、所得が多く、工業や文明が発達し、便利な生活が営めると言うことと、幸せな生活が営めると言うことは、必ずしも一致するとは限りません。 ある先進国と言われる国で原住民を保護するため、補助金の拠出を行ったところ、時間を持て余し、アルコール中毒患者が大変多くなったという話も聞かれます。 これらはまさに「管理運営」の基本原則である、「人・物・金」のバランス運営を欠いた事例として認められます。 
国名で
共和国と冠する国が125国(65.1%)と大半を占めます。 共和国の語源はラテン語の Res ラ(物事)+Publica (公共の)で、英語ではRepublic=共和国あるいは公共社会を意味しています。 辞書による相対語は王国です。 共和国はひとりの考えでなく、国民の中から選ばれた人々が相談をし、国の代表となって政治をしている国とあります。       英国のジョン・ロック
の「市民政府論」では「社会は自由で平等な個人によって形成されている」とし、個人を中心とした自然発生的な市民社会は無秩序な戦争状態ではなく、自然法が支配し、理性主体としての個人が活動する平和な状態である。 しかしこの自然の状態の平和は不安定な状態で、いつでも闘争状態に陥ってしまう。 これを防ぐためには、「法」「裁判官」、「執行する権力」を必要とする。   そのために市民合意によって政治社会をつくることになる。 これが団体としての社会をつくる社会契約である。
そして、この社会が信託によって機構としての政府をつくる。この信託を政府が破れば、信託解除になり、団体たる社会による革命権が発動される。 と「国家としての国民の生命・財産を守る義務が国民から信託委任されている」ことについて述べています。  この義務ゆえに、国家というものは「守る」と言う事に第一義的な目的が付されていると解釈すると、必然的に保守的な正確を帯びざるを得ないものと考えられます。 
 一方、個人=市民の側からしても、その団体=国家に対して、
権利ばかりがあるわけではなく、たとえ税負担をしたからと言ってもその他の義務も負います。 なぜならば、人間社会は共同で生きる社会を構成した時点から、共同の利益のための役割分担が必要とされ、利益享受という権利を得るためには、利益確保のための役割分担という義務を伴う必然性があるからです。
 市民観念の起源は古代ギリシャの都市国家で、周囲を外敵の取巻く都市国家の市民としての、最も基本的に必要とされた点は共同防衛であり、個人の土地を守るのではなく、都市としての祖国を守ることが責務として、また義務として意識されました。 その上で個人としての自由を尊重する風土が西欧で発達しました。
それでは国民が国家に対して信託委任する方法はどのようにするのでしょうか。 
最も代表的なものは選挙です。 しかしこの方法は多くの場合「可又は不可」の判断のみです。  次に代表するのが「世論」と言われるものです。  これはマスコミによるもの、サンプル調査によるものなどがありますが、いづれも国民総意の意見が反映し難いことと、宣伝に利用されるという欠点がある反面、個別の事項についての意見が出てくるという利点もあります。  
 ドイツの哲学者ショーペンハウアーは世論は時計の振り子のようなものだ、左右に振れて、やがて中心で止まる」と言いました。  国民の意見が自由であるかぎり、この言は的を射たものだと思われます。   国家が本来守りの体質を持っているとすると、国民の側では、それのみでは飽きたらず、本来自分達がなすべき「個人の幸福の保証」や「過度の国家への依存」更には「公共に対する義務の不履行」などという依存体質の増幅、及び権利の乱用が出てきては、また引っ込みます。
 これは「世論」と言うものが集団で作り上げるものであるため、多分にムード的であり、匿名性の弱点も持ち合わせていることもあると思われます。
 経済的発展や個人の幸福の拡大という部分は、国民の夫々が、または国民の自由にまとまった部分(民間企業)が担うべきものであり、そこには教育を含む民力、及びその土台であるインフラの整備などに関する国家事業の相互作用が必要となってきます。 共産主義国家の場合は、この民間や民力にたよらず、その大部分を国家又は国家の機関に依存しようというものです。
 国家と言うものを、血統→民族に関連付けて、ナショナリズムと連想されることが多くあります。
遺伝的・生理的な同一性から、共同体を構成する同胞としての結びつきの条件に最適であるとされるからで、例えば我国のように、単一民族国家と呼ばれるものであり、共通の言語・文化・歴史を有する結果、国家への連帯感が強く、帰属意識が強いとされるものです。  しかし本当にそうなのでしょうか?  民族・歴史をたどって見ても、南方系、北方・モンゴル系、大陸系、半島系など、とても単一民族の血統であるとは言えません。 内乱・内戦も数多く経験しています。 言語も方言はとても他地域で理解できる範囲を超えています。 それでもなおかつ、共通の文化をもつ大和民族として、その均質性と、国家への帰属意識の高さが強調され、我国発展の大きな要件であると強調されるのは何故でしょう?
米国の政治学者ベネディクト・アンダーソンによると「いかに小さな国でも、これを構成する人々は、同胞の大多数を知ることも、会うことも、あるいは彼らについて何か聞くことも無いのに、それでも一人一人の心の中では、 Communion(共同の生活) のイメージが生きている」と言います。  つまり、実際上はどうあれ、自分と同じ共同体=国家に所属する(同じ釜の飯を食う)同胞としての連帯感を意識します。
さらにTVや新聞等のマスコミを通じてや、同じ社会組織に属して頻繁に接触するなどのコミュニケーション活動が理解や同調、連帯などへの動機付けとしては優先されるということです。 
 このように見てくると「国」という概念は国際上の区別(各国国民としての権利・義務)とは別に、かなり主観的な曖昧な部分の多い概念であると言えます。  それは、国家が国民の行動や倫理について全て規定し、枠を設けたとすると、その時点でその国の活力は大きく削がれることは目に見えています。
 「国」が「民主体」で「民の活力」や「民の生活」を保護し、育成するための共同体であるという事は世界共通の政治理念(その実態は別にして、世界で共和国と称される国が大半を占める現状からして)ではないかと思われます。 
それでもなお且つ、世界各国の国情は大きく違います。  ここに「国としての政治理念」と、その構成要員としての「国民の生活実態と理念」の違いが感じられます。「国民生活がどの様でありたいか」という理念的なものは、その国の為政者であっても正しく把握しているとは思えません。   まして、私たちはこの国、この町、この家族の単位に絞り込んでもなかなか解りません。
そこで私達「宝島」がとるべき態度が次に出てきます。
宝島の「国」
 前記のとおり「国民生活の理念」がどのようであるかは大変難しい問題ですし、そう簡単に把握できるとは思われません。 わずかに「宝島の紹介」の中の「経営環境」の中で触れている程度で、時代による変化も激しいものと理解されます。  だからと言って「流行」や「売れるものまかせ」にしていては、いつまでたっても社会生活者としてのお客様が必要とされるもの(広い意味での理念)は把握できません。 その為、私たち商品を提示する者としては、どうしてこの商品及び品群を扱うのか、またそれはお客様が手にされて、どの様にあってほしいのかという理念があって、はじめて理念が一致しているかどうかの判断ができるものと思います。  とは言っても、商品はメーカー・流通業者・消費者の製販三層のニーズが一致してのみ生き残ることが出来る物であるとすると、私達の求めている物が市場に多くあるかと言うと、なかなかそうは問屋が卸しません(生産中止・取扱い中止等)。  しかし、この国は物造り立国の地です。 消費者の揺るぎないニーズがあれば、時間と共に再生産されるという実績を繰り返してきました。 その時間の中には「生活習慣や流行の変化など」をこなした生活ニーズがあります。   それが何であるか? を探り出すのが私たち小売業の大きな役割であると思います。
もちろん、全ての取扱い商品にこの事をあてはめると言う作業は、私たちには能力不足です。

 そこで、宝島ではそれぞれに設けている「5つの国」単位で、
「国がどのようであって欲しいか」
を考えていく作業
をし、これからも続けて行きたいと思います。
例えば「過去・未来を通じて現代では見られない風景や車両等の模型」があります。 「20年・30年と子供達に親しまれたお菓子」があります。 「そばに置いておくだけで温もりや優しさ、夢を与えてくれる小物雑貨」があります。 「難しい理屈や作業抜きに自然に体感できる遊具」があります。 「何代も受け継がれてきた単純で熟練を要する遊具」もあります。  それらの一つ一つは流行という側面から見ると、いつ市場から消え去ってもおかしくない時期を絶えず乗り越えてきました。 その底力は何なんでしょう? それは「普段意識する事はないが、生活の中で時々充足したい物」という、なんとなくビタミン剤のようなものを消費者は求められているのではないかと思われます。 ビタミンにもA・B・C・D・E等各種各機能があります。 身体の潤滑油機能としてビタミンが補給されるように、私達の取り扱う商品は生活の潤滑油であってほしいと願います。 しかし、この潤滑油は採り過ぎると時には反作用を起こします。
その為には私達は出来うる限り「商品の本来持つ潜在的な機能分析」をしていきたいと思います。
《冒険の国》は文字通り「遊びを通じて心の冒険体験」をしてもらいたいと言う理念に基づいて
品揃えした
「国」で、もう少し詳しくは個々のシリーズの中に「一口メモ」として記載しております。
 「他の国」に関しても同様ですので、詳しくは「各国」各シリーズを参照して下さい。

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