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   食品原料=〔米〕・〔麦〕・〔コーン〕・〔じゃがいも〕・〔サツマイモ〕〔砂糖〕〔塩〕〔水〕 
     世界史から見た食の歴史
 人類は約500万年前の出現当初より環境に順応し、さらに非力で
あるが故に厳しい環境を「智恵」により克服してきたということが、
他の生物との大きな違いとなりました
食糧自給
それは、まさに「生命維持=食」に関する生活改善事業が他に先駆
けて行われた事が、その後の人類の歴史を決定付けたと言っても
過言ではないかと思われます。
   すなわち、全ての生物共通の
エネルギー補給の手段である「食」と、高等生物に存在する「食の
願望=食欲」を調節する脳(視床下部)の発達の相互作用により、
他の生物に優先して「食」を得て、少なくとも現代までは「食物連鎖」
の頂点に立っているという事実があります。
 人類の食生活という点で最初の生活改善事業と
なったのは樹上生活から平地へやむなく移動した
という事です。 それは、依然として
自然採取生活
ではあるが、その世界が飛躍的に拡大しました。
例えば
塩や蜂蜜と言った「甘辛物」が豊富に採取
出来る様になりました。 しかし樹上生活とは違って
生存競争の激しい平地生活の中から、人類は「石」
を道具として、さらには「火」を手段として使う事を覚えました。 これらの道具や手段は自分達の「力」以上
のモノを得る事に気付き、さらに改良工夫を加える事によってより大きい効果を得ました。
その技術が(同じ事象を繰返してたどれるという)科学文明となり、1万年以上前にはそれまで採取して食べ
ていた野生穀類(
小麦・大麦・豆類)の種子を蒔くとまた新しい種子が出てくることが中東地域で発見され、
栽培農業が始められました。 この事は人類の生活にとっての大変革であり、繰り返し穀物が収穫出来る
ことにより、水辺近くの肥沃な一定の土地に定住することが可能となり、さらにその事が定住地近くの野生
ヤギや牛を家畜化する事に有利となりました。 そして食物の貯蔵・貯蓄がされ、やがて各地の物産品
と物々交換・交易が行われるようになりました。 約5千年前にはこのメソポタミアの地(現在のイラク)では
それまで未発達ではあるが定住或いは半定住農耕生活を続けていた周辺の氏族・部族が集まり人類最初
の民主的な共同体都市が築かれました。 やがて都市が発達・拡大して隣接境界地帯の水利権の紛争等
に備えるため民主的に選ばれた王の下に帝国が築かれ、楔形文字が発明され、最初の法典が作られ、
共同社会を構築しました。 農業から得られる富をもとに、都市の内外で盛んな交易が行われるようになる
と、農業、商業、職人(工業)、建築業などの初歩的な産業の専門化がなされる様になりました。 こうして
先史時代をリードしたメソポタミアやエジプトでは、初期的な食品工業ともとれる「
穀物を粉にして練ったり、
干した果実や香辛料を混ぜ込んで火にかけて焼く」という様な初歩的な調理の痕跡が遺されています。
これらの加工された食品がパンや菓子の原型となり、やがて発酵技術・抽出技術など
が加わり、それに食品保存技術の高度化が加わって生活に余裕が出てくると共に、
富裕層を中心に儀式のみならず、普段の生活を楽しむ文化が成熟・発展し、各地に
伝播して行きます。
 最初の文明が起こった中東地域では都市国家間の戦争が多くなり、次第に
活力が無くなって来た(紀元前700〜500年)頃、少し西のエーゲ海一帯では
古代ギリシャ文明が花開こうとしていました。 このアテネを中心とした都市国
家連合体は、それぞれ島や山間部が多く、食糧の自給率は低かったのですが
その分、貿易と工業に頼っているという、現代のわが国の経済によく似た産業
構造を持つ国でした。 慢性的食糧不足に悩み、食糧確保の解決策としては
効率の悪い他国侵略を選ばず、地中海沿岸各地への植民政策を採りました。
この事が結果的に、民主主義やアルファベット、哲学・科学、芸術等の各方面
でギリシャ文化を現代に伝えた要因となりました。  食文化の面では朝食は
無しか少々、昼食は軽く、夜はたっぷり、と夜型、都会型の食事形態でした。

ギリシャ
食事内容は総じて質素で豆類やキャベツなどの野菜が主食で、時に応じて魚、チーズ、パン、ぶどう
などが食卓にのぼり、木の実やイチジクが嗜好品として、甘味料には蜂蜜が使われました。

 ギリシャがアテネとスパルタに分かれてペロポネソス戦争で国力が低下している紀元前400年の頃、
かつてはイタリア半島のティベル川沿いの小寒村に過ぎず、厳しい土地を生き抜くための質実・勤勉・
粘りの気風を身につけたローマ人が隣接国と同盟を結び、着々と半島に勢力を拡大していきました。
 
紀元前275年には半島南部とシシリー島にあるギリシャ植民市群を応援するギリシャ本国軍を破り、
次いでカルタゴとのポエニ戦争に、さらに古代ギリシャの最後を飾るアレキサンダー大王の死後分裂
したヘレニズム世界の3大強国(マケドニア、シリア、エジプト)を打ち破り、内乱を収束させて、広大な古代
ローマ帝国を築きました。 ローマは軍事や政治組織の面では強力なものを造り上げましたが、医学や
教育など文化面では征服したギリシャ人を教師として使っており、ギリシャ文明を強く受継ぎました。


首都ローマ
ローマ庶民の食事は朝食は無しか少々、昼食は前日の夜食の残り物
で作った軽食、夜はパンとオリーブとブドウ、そして甘味をつける為の
蜂蜜などで時たま肉・魚
が食卓にのぼりました。 ローマ人の好物は
果物で、りんご、栗、クワの実、スモモ、メロンもありました。
 ローマの建国から共和制最盛期の紀元前2世紀にかけて国家の経済
や精神を支えてきたのは農民でした。  しかし皮肉なことにヨーロッパ・
北アフリカ方面に勢力を拡大するにしたがってフランスやスペイン、シリア、
エジプトなどの一大農業地帯より、安い農産物が輸入されるようになり、
規模の小さい農家では太刀打ちできくなりました。 そして大規模農家の
小作人となるか、又は首都ローマに出て職を求める元自作農民が多くなりました。 こうして徐々に国力
が低下して行き、さらに広大な帝国の属州を管理するための膨大な数の官僚のコントロール不能に陥り、
4〜5世紀にかけてのゲルマン人の(ゴート族・ヴァンダル族・など)侵入により西ローマ帝国は滅亡します。
 ローマとほぼ同時代の紀元前206年から西暦220年の約4世紀の間
東の世界である中国の広い範囲を支配したのは漢帝国でした。

この国もまた、ローマと同じく農民が経済を支え、兵士として主力を
支えました。 しかし打ち続く周辺部での戦いは領主・諸侯の支配権
を強めた反面、農民は土地を失い農奴または小作農になりました。 
特に匈奴との戦いは農耕民にとっては何とも労多くして益の少ない
戦いでした。 多量の犠牲を出して得た戦勝の地は農耕に適さず、
さらにこの頃から始まった寒冷化の気候は本国中心部の穀倉地帯に
大きなダメージを与え漢帝国は国力を衰微させ、ヨーロッパの場合と
同じく北辺の遊牧民諸族の侵入を許します。  そして戦国期を経て
北魏、隋、唐と遊牧民系の王朝が築かれます。 7世紀頃から始まる

温暖化は農村を回復させたことにもより、唐王朝の勢力圏を西に南に拡げ、ペルシャ・トルコ・インド・
安南などと広範囲に交易が促進されました。 
唐の時代の一般庶民の食事はキビを主食に豆や数種の野菜、そして季節の果物で時たま肉類が出た
ようで、南部の人々の主食は米でしたが、この時代には諸外国から新種の植物やその他の物資が移入
されました。 アーモンドやガーリック、南部山地に産するも上流階級の人々にはすでに愛好されて
いました。  さらに醸造や漬物技術も発達し、食材も豊富になり菓子の加工技術も発達しました。 
そして我国へは遣唐使などにより、下記の唐菓子をはじめ多くのモノや技術が移入されました。
 蛮族と言われたゲルマン諸族はシーザーがガリア地方(現フランス)に遠征した紀元前58〜51年の更に
以前から度々侵入し、その度に圧倒的装備に差があるローマ軍やローマ側に懐柔された同族軍に追い
返されていましたが、ゲルマン側にも止むに止まれない事情がありました。
鉄製の農具や武器を持たない彼らは、ライン川以北の寒冷地で貧弱な農業
と牧畜を営む半遊牧民で、絶えず食糧の確保には苦労していました。 
彼らの故国スカンジナビア半島ではさらに冷気は厳しく、南に移動してきて
人口は増大していました。 その上に中央アジアの大民族フン族が東方より
圧力をかけてきました。 こうした事情が西暦376年にフン族に追われた西
ゴート族がローマ帝国の保護を求めたのを最初に、406年にゲルマン諸族の
家族を伴った大移動と、以後572年までの移動につながりました。  彼等
は肥沃な土地も手に入れましたが、ローマの人々が利益の薄い農業として
放棄していた雑草の生い茂る休閑地も蘇らせ、以後の中世経済の中枢と
なる農業の再生を果たします。   とは言っても、それは100年や200年の
短期間に果たせたわけではなく、彼らがヨーロッパ各地に移動して後も永く戦国時代は続き、自給自足の
経済がやっとでした。 東ローマビザンティン帝国軍、ゲルマン諸族間、フン族、イスラムサラセン帝国軍、
バイキング、マジャール族、そして10世紀になってようやく力をつけだした封建諸侯による勢力争いです。
いつ襲われ、略奪はおろか命をも落とす危険性のある戦乱の世を生き、農業をまっとうするには、いつ来
るか判らない王国軍を頼るよりも近くの封建領主を頼ると言った封建制度が徐々に固まっていきました。
当時の村は「物見・貯蔵庫を兼ねた城」を中心に「畜舎を備えた農民の民家」「教育・精神を支えた教会」
とその外に「主として豆・麦畑・ブドウ畑」さらに近郊には「燃料材や狩猟用の林」が多くみられました。

当時の人々の食事は現代の洋食のマナーとは程遠く、いつ襲われてもよい様に立食、手づかみで、肉は
ナイフ1本で奪い合うようにとられ、下手に手を出すと腕を刺されることもしばしばだと記されています。

ともあれ治安が少しづつ回復し、農業技法も向上するにしたがって生産性は高まり、生産品を市場に出す
余裕もでてくると共に商工業が盛んになるようになりました。 人々は農園の周辺のみの世界に閉じ込め
られていたそれまでとは相違して、交易・書物などから格段に広い世界を見るようになりました。 そして
地域単位の運営管理体制である封建制はくずれ、絶対王政の時代、大航海時代、産業革命、近代化へ
、第一次・第二次世界大戦という進歩の負の側面も経験しつつ、急速かつ驚異的な進歩を遂げました。

 その結果、現代の私たちには世界中のほとんどの食品を手に入れることができます。  そして飽食の
時代といわれます。  しかし過去にさかのぼれば、これまでに見てきた通り「食べる」ということはまさに
「自然との、あるいは隣人との生存競争に勝ち抜く」ことでした。 それは過去何度も何度も、哀れな程に
何度も繰り返し命を賭して戦われてきました。 この現実の前では宗教も完全に機能することが出来ず、
ただ「食べられて、なおかつ治安が安定している」ことが比較的平穏の時代を形成していることに気付か
されます。 現在アフリカのサハラ砂漠以南の地域での食糧不足が深刻です。 しかしこれも治安が安定
していれば解消されるといわれています。 これ等も歴史が示唆しているように思えます。
(※食の歴史がテーマにも関わらず、その社会背景を多く記述しました)。


わが国のお菓子の歴史


紀元前〜大和時代
前800〜西暦552年
               
 紀元前6500年頃に起こった隕石落下による急激な地球温暖化は
食糧が豊富になると同時に人口の増加を生みました。 そして温暖化は動植物を北上させ、それを追って人類の北上も始まります。そこにはナウマンゾウ、オオツノシカなどの大型動物が少なくなっており、中小の動物や温帯性の野生穀類が多く生息していました。 この多種にわたる食糧の対象物は人類の定住を促し、やがて農耕・牧畜につながるのですが、わが国ではこの時代を縄文時代と言います。 
  縄文時代後期の紀元前2500年頃には寒冷化がおこり、西日本方面への再南下がはじまります。 そして採取・貯蔵の縄文生活は続くのですが、中国大陸でもやはり民族の南下があり、既に周王朝という社会体制を築いていた帝国が弱体化し戦国時代に入りました。 紀元前1000年頃には中国内の治安の悪化を嫌った人達が我国にも多く移住してきて、紀元前800年頃までに水稲耕作の技術を伝えました。 そしてこの生産効率の高い水田稲作と粟・黍などの陸稲穀物栽培や野生食物の採取などの縄文式がミックスした弥生時代に入ります。  この弥生式文化の原始時代から、後の大陸文化の輸入以前の時代まで、「」とは本来「木の実」「果物」の意味で、{菓子}には なし・ くり・ かき・ もも・ うめなどの「くだもの」と、きうり・なすび等の「くさくだもの」と、餅・飴などの穀物加工品」でした。餅は穀物加工品の中でも最も古いものの一つですが、「糯飯(もちいい)」の略で、原料を蒸して臼でつくものであり、「もちごめ」に限らず、玄米・大豆・あずき・粟などの餅もありました。
餅は穀物加工品の中でも最も古いものの一つですが、「糯飯(もちいい)」の略で、原料を蒸して臼で
つくものであり、「もちごめ」に限らず、玄米・大豆・あずき・粟などの餅もありました。
焼米(やいごめ)は稲を煎って手でもみ落し、さらに煎ったもので、上代では常用食或は
間食用 として、また長く保つので非常食用として珍重されました。
糒(ほしい)は「ほしいひ」(乾飯・干飯)の義で、もちごめを蒸して乾燥させたものです。
兵士の糧食用および旅行用のほか、一日二食であった当時の日常の間食用に供され
ました。
古代に甘味料として用いられていたものは、越冬に備えて養分を蓄える紅葉の頃、左図
のような自然に自生する蔦(つた)の一種で、甘蔦(あまづら)といわれるつる草の蔓(ツル)
の部分を下の方で切り、滴る液を採取したものが利用されていました。

(阿米)の原料は、後世では麦のもやしですが、古代では米でした。
飴は供養料・薬用・調味料などに用いられ、「甘露の味」と言われて菓子の大先輩として
生活の必需品でした。


奈良時代〜平安時代
552〜1192年
            
 奈良時代に入っても庶民の食する菓子は主に栗、シイの実、ヤマモモや雑穀類を搗いて餅にする
菓子が主体でしたが、次第に中国大陸との交流が盛んになり小野妹子などの遣隋使や、最澄・空海
などの留学生や遣唐使などによって「穀粉を茹でて揚げたり焼いたりする製法」や蜂蜜、甘蔗、砂糖
などが伝えられ、それまでの餅を中心とした間食のイメージは薄れ、嗜好品としての菓子に近づいて
きました。 ただしこれらの唐菓子は祭祀用や貴族の間で使用されていたもので、まだ一般庶民には
普及していませんでした。 しかし、唐菓子は日本古来 の菓子(穀粉を練ったり焼い
たりする等)にも大きく影響し、和唐合作の新製品「青ざし」が創製されました。
この「青ざし」は最古の加工菓子として江戸時代まで庶民の愛好品となりました。
この頃入った唐菓子が現代に残る菓子の源流となっているものには次のようなものがあります。
ほうとう=山芋下ろしと米粉を混ぜてめん棒でのばしたもので、うどんや他の麺類の源流。
椿餅(つばいもち)=米のだんごに甘葛をかけて椿の葉で包んだもので、柏餅や桜餅の源流。
おこし米(於古之古女)=米に蜜を混ぜて煎ったもので雷おこしや粟おこし、岩おこしの源流。
煎餅(いりもち)=米または麦の粉を練って焼いたもので、おかきやセンベイの源流。


鎌倉時代〜南北朝時代
1192〜1393年
         
 歴史的には鎌倉時代から室町時代を経て安土桃山時代に及ぶ約400年間で菓子の変遷期になり
ます。 1191年に禅宗の臨済宗を開いた栄西が中国から持ち帰った「茶」の実を京都 栂尾高山寺
の明恵上人によって植樹に成功してから喫茶が盛んとなりました。
茶道は珠光を始祖とし、中興の祖 紹鴎が出るに及んで確立されました。
この茶道に使用する菓子を「点心」といい、また茶の子」「茶菓子とも呼ば
れました。 今の言葉でいう「お茶受け」です。
元来点心とは、定食と定食との間に食べる小食のことで、鎌倉初期までは
朝夕の2食なので点心 は昼にとられましたが、鎌倉中期からは武士と農民は
3食となったので、点心は昼食と夕食
との間にとられるようになり、これが後世
の「おやつ」の起源となりました。
点心菓子は羹物=温めた汁物、お粥等。 麺類=うどんやそうめん。 蒸菓子=蒸饅頭、蒸羊羹中
でも饅頭は南北朝期に京都建仁寺の龍山禅師が中国留学の帰りに林浄因(塩瀬饅頭の祖)を連れて
帰国したのであるが、浄因は当初中国風の饅頭(肉や野菜を包んだもの)を生業としたのであるが、
当時は肉食の風習が無かったためあまり売れず、具に小豆餡を入れた饅頭を入れたところ大変好評
で、ついには宮中に献上するまでになりました。 以後茶道の隆盛もあり、饅頭は和菓子の中心的
存在になっていきます。
 ※鎌倉時代は幕府中心の中央集権体制となったのですが、平安時代までの都に貴族がいて政治
・経済を司る体制とは違い、武士が在地で荘園や領地の運営や防備に充たる(一所懸命)の体制を
採る、ある意味では地方分権の社会でした。 政治の中心地鎌倉は意外にも当時2万人程度の人口
で、自然の要害に囲まれ、中心部に入るには深い切通しの道を通らなければ入れなかったようで
した。 幕府と地方の繋がりを密にするための御家人制度や守護・地頭制度が機能していたことは
勿論のこと、さまざまな工夫が為されていました。  元寇の時に来襲を3日で知らせた直線国土縦貫
道路(大道)や道の駅(30里毎)の設置もその一つです。  さらに鎌倉期に急激に拡大整備された
仏教が各地域にお寺を建て、当時の先進文化の吸収と同時に地方への文化の伝達に大きな役割り
を果たしました。   「私度僧」という名も無い僧達も全国を行脚し医療や先進技術・文化の伝播に
あたりました。 その様な時代環境のもと「お茶」や「唐菓子」は我国の食文化に深く定着するように
なります。


室町時代〜安土桃山時代
1393〜1603年
            
 1543年のポルトガル人による種子島鉄砲伝来の時期はまさに戦国時代真っ只中にあり、鉄砲は
その後の戦法や勢力図さえも画期的に変えました。 各地の有力者は競って鉄砲を入手しようと
して、外国との門戸を開きました。 それから1615年の徳川幕府による鎖国政策が行われる迄の
約70年間は南蛮貿易が盛んになりました。 この間ザビエルやルイス・フロイス等のキリスト教宣
教師による布教活動の有力な道具となった金平糖やカステラ・ビスケット等の南蛮菓子はそれまで
の唐菓子とはかなり違った味で、我国の人達をおどろかせました。
それらは小麦粉・砂糖・牛乳・鶏卵等をふんだんに使ったカステイラ・ボーロ・ビス
カウト・玉子そうめん
また砂糖・飴を主体とした金平糖・有平糖・カラメルなど、
これまでの唐菓子とは全く異なり、製法においても原料の点でもわが国菓子文化
に大変革をもたらすものでした。 これらの南蛮菓子は長崎県を中心にして日本
国中に伝わり、特にこの時期を境にして勢力を持ち出した町人階級にもひろがり、
製造技法も次第に日本化されて現在にまで及んでいます。 その代表的なものに長崎カステイラや
金平糖があります。


江戸時代
1603〜1867年
        
 江戸時代は、京都と江戸でそれぞれの特色を発揮して菓子製造が隆盛となった時代で、また菓子
が急速に庶民に身近なものとなった時代でもありました。
京都では長い伝統をもつ鑑賞用菓子が宮中・大名等に愛好され、一層優美典雅なものとなりました。
饅頭」についで「練りようかん」が発明され、さらに数種類の餅菓子が生まれ、半生菓子干菓子
が現れ、これは京菓子と呼ばれて広く好評を博しました。
京風を尊んだ江戸庶民は京都からの伝来物を「下りもの」として喜び
菓子類もその例にもれず京菓子は3代将軍家光から5代将軍綱吉の
頃には全盛時代を誇るに至りました。
しかし、やがて江戸人は京菓子には満足できず、享保を経て安永、
天明年間(1720〜1780年)になると、江戸の個性が現われはじめて、
剛健質朴のなかにも優美典雅な浮世絵風の情趣が完成するように
なり、京菓子に対抗して上菓子が出現し、武士と庶民に大いに歓迎
されました。 上菓子とは京都では献上菓子の意味でした江戸
では「駄菓子」に対抗する意味で用いられました
当時饅頭も江戸へ進出し、ようかんが大流行し、桜餅・金つば・
大福餅
など江戸時代に完成しました。  また「雑菓子」も生まれ、
「駄菓子(一文字菓子)」と称していました。
当時砂糖の使用制限で、白砂糖は上菓子屋だけが使用を許され
ましたが、
黒砂糖だけを用いた駄菓子類も、製造技術が大いに工夫
されて上菓子に劣らぬ美味な物ができて、一般庶民に
愛好される
ようになりました。 
草加せんべい亀の甲せんべい「瓦せんべ」「塩せんべい松風」はこの頃のものです。
文化文政(1804〜1830)以後の江戸は、庶民の町として「今川焼」「五家宝」「紅梅焼」「柚餅子
痰切飴」「豆板」「かりんとう」などが人気を集めました。   た幕末には「最中」と「切山椒」が街で
出盛り、庶民の味は急速に広まっていました。  このように今日の和菓子のほとんどが江戸時代に
作り出されて、わが国製菓業にとってその基礎が作られた重要な時代となりました。
西欧産業革命とお菓子
 18世紀後半、植民地貿易と毛織物工業で得た富と、農業革命(エンクロージャー=囲い込み)
による豊富な労働力を得、鉄・石炭などの工業用資材が豊富であった
英国では最初に「産業革命」が 興りました。  これは「機械発明→蒸気
機関→燃料生産→運輸→都市人口集中」という工業化の社会変革が
成されたものであり、その中心は繊維、鉄鋼・機械、運輸といったところ
ですが、農業中心→工業化という社会・産業構造の変化は、食品工業に
おいても当然少なからず変革をもたらします。  特に製糖産業の工業化
はビスケットやチョコレート等の量産と大衆化が図られ、以後の菓子製造
の機械化・工業化の起爆剤となりました。


明治・大正・昭和初期
1868〜1945年
        
明治維新によって鎖国令が解かれ、西洋文明が自由に入ってくるとともに、ドロップ」や「パン
キャンディ」「チョコレート」「ビスケット」等が輸入され菓子界にも大きな変化がもたらされました。
従来、日本人は長い間肉食を断っていましたので、初めは動物性油脂になじめませんでしたが、
明治20年頃には「バター」や「ミルク」を多く含んだ洋菓子にも馴れその輸入量は急増しました。
明治10年(1877)の洋菓子輸入額 5,000円が明治38年(1905)には一躍46倍の23万円となり
日本製洋菓子の製造にも大きな影響を与えるようになりました。
日本で最初に洋菓子(ビスケット)を作ったのは、明治8年京橋の米津レ雌ーで、
明治32年には森永西洋菓子製造所という本格的な洋菓子専門会社が設立さ
れました。
   当初手工業であった洋菓子の製造はビスケットドロップ」の
製造に刺激されて機械工業化され、「キャラメル」「チョコレート」「ウェファース
ピース」「掛物ゼリービーンズ、チャイナマーブル等)も次々製造されるように
なりました。
 それでも洋菓子は明治末期で国内菓子生産総額の約1割に過ぎ
ませんでした。
それが大正から昭和へ移ると、洋生専門のメーカーが出現し、喫茶店の発展とともに洋菓子への需要
は急激に増大してきました。 喫茶店は当時「カフェー」といい、コーヒーを飲みながら洋菓子を食べる
ようになって、あまりなじめなかった乳製品の味にもようやく馴て、「ショ−トケ−キ」
「パイ」「シュ−
クリ−ム」などが作られ、大量生産なくしては需要に間に合わないようになり、
洋菓子専門会社が次々
と作られるようになりました。

洋菓子の大量生産は和菓子にも大きな影響を与え、材料、技術とも格段の進歩をみせ、色彩・味・
形状ともわが国独特の繊細優美なものが作られるようになり、和・洋両菓子の並立時代がここに
生まれました。


戦後〜現代
1945〜2010年
          
 昭和20年(1945年)第二次世界大戦は終了しましたが、戦中・戦後の約10年間の日本人の食生活
は根底からゆさぶられました。すでに昭和14年ころからの戦時体制は、砂糖をはじめ
あらゆる製菓材料を統制下におき
、菓子店の休業や廃業が続出しました。 
工場は戦災を被り、菓子の生産はほとんど停止状態となりました。  戦後の復興は
進駐軍の「チョコレ−ト」「チュ−イングガム」から始まったとさえ言えそうです。 
それは痛ましい象徴でもありました。 当時いわゆる闇菓子が横行しましたが、正規の
ル−トに
よる菓子の生産は、わずかに乳幼児や労務用としてのキヤラメル、ビスケット
などが指定工場で
計画生産されたに過ぎませんでした。 
しかし政府の自由経済政策と連合軍
からの輸入食糧の放出による食糧事情の好転と
によって
次第に菓子の生産復興が表面化してきました。
昭和24年には水飴、ブドウ糖の統制撤廃が、また27年には砂糖の統制が撤廃され、菓子の生産
が自由となり、一斉に活発な動きをみせるに至りました。
昭和24年には水飴、ブドウ糖の統制撤廃が、また27年には砂糖の
統制が撤廃され、菓子の生産が自由となり、一斉に活発な動きを
みせるに至りました。
30年頃には戦前を凌駕するまでに生産も増大しましたが、まだ原料面
の制約からあめ菓子」が中心でした。

30年代に入って暫くすると、政府が提唱した「所得倍増計画」や食糧物
資の出回りによって国民の食生活の内容が急速に充実してきたのが、
この時期です。  米の消費量が斬減するとともに、卵・牛乳・畜肉・油脂などの需要が増大して、
食生活はもちろん生活全般が急速に
回復から成長へと転換していきました。
お菓子は栄養面と嗜好面で、洋風化、高級化の傾向が現れました。 30年代の急成長の中心は
チョコレ−トとビスケットで、ことに後半高級化、多様化を示しながら伸長しました。
参考資料: 日本BB協会発行 お菓子の知識 Q&A より
        
 さて、お菓子を切り口として時をさかのぼったのですが、各時代共通しているのは、生きる為の
エネルギー補給としての主食から多少離れて、「食」を楽しむための工夫が夫々の時代に応じて、
真剣にしかし嬉々として開発されて来た事が感じとられます。  そこには、ただ生きているだけ
ではなく、生きることの楽しみや喜びを身近に味わおうとする、まさに「」の中でも「」の
部分が強く感じとられます。   この楽しみや喜びを自分だけのものとしてではなく、身近な人、
さらには、次世代に広め、受け継いで行くことが「食文化」そのものであると理解します。
 その「食文化」が先人達によって営々として築き、伝えて来られたことによって、現在私達が
本当に大量・豊富にある「食文化」の果実を味わうことが出来る事に感謝します。
 ところで、「歴史」と銘打った以上、私達は「過去〜現在の時を行き来」するのみではあまり
意味がありません。   
歴史とは過去に鑑みて未来を見つめる」ことに最大の意味があると思われます。
そこから出てくる結論は人も含めて、この世の動植物は全て「食」というもの
には最大の関心が払われるということです。   特に人は「食」を楽しみ、
しかもその楽しみを多くの人と共有しようとすることです。
 さして広くない私達のお店でもチョッとした物陰はありますので、そこで
時たま飲食をすることがありますが、どんなに忍んでも目線が集中します、聞き耳がたてられます、
時には質問があびせられます。  まして、購入後ベンチにすわって駄菓子を食べる小グループの
メンバー同士には「食」に関する秘密は全くありません。 上記のさらに厳しい環境が課せられて
おり、単独行動を採ろうものならたちまちブーイングが発せられます。 しかしメンバーはこの厳し
い環境を楽しむかのごとく、食事の最後まで時には盛上がり、時には静かに余韻を楽しんでいます。
最近「独り食事」が多くなったと言われています。  社会環境上の色々な要因
がそのようにさせたとも言えるかもしれませんが、もともと人類は「協働の社会
をつくり、分業により成り立つ」社会構造を築いてきました。 そんな協働社会
で「独食」は歴史の中でも、また個人の人生の中でもある一定の時期のみに
発生する異常現象であると理解できます。 「独食」が過去より恒常的にあった現象であったとする
ならば、ここまで「食文化」が発達し、引き継がれて来たとはとても思われません。
 皆に「美味しいと言ってもらおう」、「よかったと言ってもらおう」、「楽しかったと言ってもらおう」
と言う意欲が、これまで主婦を中心に「食の作り手」や「食を運ぶ」人達の「食文化」を支えて来た
大きな力となった事は間違いなく、その事は今後変化するとは考えられません。
 今後「食」を科学し、分析し、改革し、技術革新によってさらに夫々の嗜好に合った食品が開発
される事は確かでしょうが、「21世紀の課題」でも触れましたように、世界的な食料不足が予測
されるすぐ直近の未来に向かって、「食品貯蔵」や「食品加工」
技術の伝承と開発に優れて関わって来た「加工食品業界」では
特に、戦後の統制経済のため材料不足により業界全体が存亡
の危機に陥りましたが、その後包装材や加工技術の革新により
3ヶ月〜2年間も日持ちのする食品を次々に世に送り出して来
た菓子業界の実績があります。 当然来るべき「世界的食糧不足」に応えられるべき資源が内包
されていると思われます。  今こそ「世界食糧不足」に対する何らかの対策が求められていると
いう危機感を持って業界全体が課題克服の方向に向かってもらえれば良いなと思います。
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