1944年(昭和19年)当時の高槻市南部                      1999年(平成11年)の高槻市南部


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町から都市へ、そして未だ見ぬ未来へ!


























 もともと「」とは字のごとく「田の区切」を意味していましたが、平安京などの市街地を道路などで 区画(四〇丈=約121m四方)する時にも導入され、そこに商店や市が立ち、人々が集まった事から現代に近い「町」の概念が形成されてきました。 そしてその自然発生的な「町」の規模が拡大されるにしたがって、治安や共益、インフラ等の各種の自治体制を必要とするようになって来ます。 これ等の公事は「町」の単位でも個々の構成員が大なり小なり兼業でカバーしていたものが、規模の拡大とともにこれ等の公務は必然的に専業化されて行きます。 それまで、時に応じて話し合いで解決していたものも規範(条例)を設けて律する必要性が出てきます。  そして政治の必要性が高まります。                                        古代都市図
 「City=都市」は「Citizen=公民、市民、都会人」から来ており、欧米諸国でも「Town」に比べるとかなり政治的な意味合いを含みます。  我国でも「=宮処」と「」から来ており、政治、経済の中心地であることを意味します。 
我国には様々な形態の都市が存在します。  帝都=東京、 商都=大阪、 京都=都、古都=奈良・鎌倉、 城下町、 企業城下町、 門前町、 衛星都市、 学術文化都市、 都・道・府・県庁所在地 その他、 多岐にわたって呼ばれています。
その各々が時代と規模の差はあれ、最初の図の様な変遷(農業→工業立国)をたどっています。 
 これをご覧になっているあなたの住まれる町はどの様に変遷したのでしょうか?
私達の住むこの国はその時々の自然や社会環境によって様々に変化して来ました。
 縄文時代の狩猟生活から弥生時代の農耕生活へ、中央集権国家草創期の古代共産体勢から地方封建(分権)体制へ、そして、坂上の雲の時代を経て「農耕→工業化」が図られ、わずか一世紀の間に物心共に劇的な変化を遂げました。 それは日本全国、場所や職業を選ばず、生活スタイルの変化を余儀なくしましたが、特に工業化は生産・流通等の効率化のため、都市集中化を生み、大都市及びその周辺地域の風景を一変しました。                          開発荘園図

高槻本町旧家街
私達「宝島」の在る高槻市もその典型的なパターンをたどった町として、
身近な具体例としながら戦後の都市の変遷を見てゆきたいと思います。

そして将来、最上図の写真をもう少しズームアウトして日本全図を見ると
どうなるでしょうか? さらに成層圏まで昇ると何が見えるのでしょうか?
 でも、野口さんやスペースシャトルからの映像だけではなく、私達地面
に密着していてもありとあらゆる情報が飛び交っています。
 異常気象、

JR駅前
地球温暖化、水・化石燃料の枯渇、過疎化などマイナス情報。そして自然エネルギーの利用、Uターン・Iターン、
水耕栽培などプラス情報。 しかし当面のところマイナス情報の方が圧倒しています。  人類が自然に挑戦し、
その天文学的な力の差を見せつけられ、再認識しつつある時代です。
そして再び自然の恩恵に与かりたいと始動し始めた時代です。
「次世代の幸福」という点では、もしかすると手遅れの部分があるかも知れません。
しかし、まだまだ間に合う部分もあるかも知れません。 
そうだと信じて、今に生きる私達が出来ることは「負の遺産」を次世代へ残さない事、それは
何も完全無欠にして次代に引継ぐことではなく「負とはこんなにつらい事ですよという実感
を伝えることも私達が残さなければならない遺産の一つであると思われます。
※大阪の衛星都市高槻市の場合(最初の航空写真を参照しながら見て下さい)
上左図は約60年前の高槻市南部の写真で、上(京都・琵琶湖方面)から下(大阪湾方面)に淀川が流れます。
もちろん「宝島」はまだ有りませんが、春日町は上1/4中央部に位置し、田畑のど真ん中です。
中央に貫通する細い(当時2車線)道路は国道170号線で、淀川に架かるのが枚方大橋です。
 一方、上右図は近年にほぼ同位置を多少遠景で撮ったもので、淀川に平行して走る斜めの線は東海道新幹線
です。 左上の黒い池の様に見える施設は6世紀初頭、未だ近畿の地域支配政体であった河内王朝(ワケ王朝)
から中央集権の大和朝廷に質的変化を遂げる最初の天皇、「継体天皇」の真の陵墓と定説になりつつある「今城
塚古墳
」です。 同古墳の図上約2p下、国道171号線とJR東海道線の間に挟まれた大敷地は松下電子工業
(高槻工場、昭和27年)、右上に明治製菓(昭和30年)、サンスター(昭和33年)、第一製薬(昭和8年)、
写真中央部に高槻市柱本出身の元通産大臣で日中経済交流の魁となるLT貿易(L=廖承志、T=高崎)を実現
させた高崎達之助氏が興された東洋製罐(昭和46年)があり、そのすぐ近くに水耕栽培「ハイポニカ」の協和
(昭和28年)があります。      
※カッコ内はいずれも工場開設年。
                 
                   上図は今城塚古墳近辺図で   協和鰍フ研修センター(上右図)が近くにあります。
それでは、しばらく第2次世界大戦後の変化を中心に数字で追って見ます。

 ☆人口の変化 
高 槻 市 内65歳以上 全  国 内65歳以上
元 号 西暦 世帯数 人口総数 老齢人口 構成比 世帯数 人口総数 老齢人口 構成比
明治34 1901 625 3,053 44,359,000
大正 9 1920 814 3,897 11,101,086 55,963,053 2,966,000 5.3%
大正14 1925 994 4,586 11,879,179 59,736,822 3,047,000 5.1%
昭和 5 1930 1,262 5,980 12,582,023 64,450,005 3,094,000 4.8%
昭和10 1935 5,589 28,295 13,342,282 69,254,148 3,255,000 4.7%
昭和15 1940 6,437 31,011 14,342,282 73,114,308 3,436,000 4.7%
昭和20 1945 8,775 38,419 14,731,699 71,998,104 3,700,115 5.1%
昭和30 1955 11,546 54,028 17,959,923 90,076,594 4,786,199 5.3%
昭和40 1965 32,871 130,735 24,081,803 99,209,137 6,235,614 6.3%
昭和45 1970 63,714 231,129 28,293,012 104,665,171 7,431,227 7.1%
昭和50 1975 94,029 330,570 13,200 4.0% 32,143,783 111,939,643 8,865,429 7.9%
昭和60 1985 109,135 348,784 22,200 6.3% 38,133,297 121,048,923 12,468,343 10.3%
平成 7 1995 126,958 362,270 41,736 11.4% 44,107,856 125,570,246 18,260,822 14.5%
平成12 2000 133,232 357,438 51,623 14.3% 47,062,743 126,925,843 22,005,895 17.3%
平成17 2005 137,755 351,826 66,780 19.0% 49,566,305 127,767,994 25,672,005 20.1%
平成27 2015 - 334,000 97,000 29.0% 50,476,000 126,266,000 32,772,000 26.0%
平成37 2025 - 295,000 91,000 30.8% 49,643,000 121,136,000 34,726,000 28.7%
平成47 2035 - 270,000 89,000 33.0% 113,602,000 35,145,000 30.9%
平成57 2045 - 104,960,000 36,396,000 30.4%
平成67 2055 - 96,171,000 34,586,000 36.0%
 ※平成27年以後は推計です。 赤字はピークを示します。  資料 国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」より





















































































































 ☆戦後の経済変動 年  代  表
【団塊の世代と高度成長期】
 我国の年齢構成はいわゆる「つぼ型図」を示し、70歳以上の戦前生れの人、最大人口を構成する団塊の世代(昭和22〜24年生れ)、第二ピークになるその子供世代(昭和46〜49年生れ)、そして少子化が顕著に現れる平成以後生まれとなります。  
高槻市の場合も全国の構成比図と同じ様な曲線を描きますが、明らかに団塊に関わるピークの山が大きくなっています。  これは昭和30年代後半〜40年代、高度経済成長期に毎年2万人〜5万人もの人達が転入(転出と差引きして1.5万〜3万人増)し、他に類を見ない人口急増期を経験した事によります。  その結果、上左図から右図のような、立錐の余地(河川敷、上下水処理場、学校、工場等)もなく住宅が立ち並ぶ町となりました。  以後30年余は安定期を迎え、高度経済成長期にあったような西日本各地からの転入も少なくなり、ほとんどの人達が「土地っ子」となりました。 人口動態で「昼夜間比率」(昼間他市へ働きに出掛ける比率)がありますが、高槻市は83%(大阪市141%、茨木市94%、吹田市99.6%、東京138%)で大阪府下では最も低く、また雇用者率も86%(全国平均77%)とサラリーマンが多く、いかにベッドタウンであるかが解ります。
戦後まもなく我国は物不足の極端なインフレとそれを抑えるためのデフレ政策が強行され深刻な不況になりますが、昭和25年朝鮮戦争が勃発し、その特需が設備投資と海外からの新しい技術を導入して企業基盤を整えました。 
そして昭和30年代に入るとテレビ、冷蔵庫、洗濯機といった「三種の神器」等の内需も活発になり、池田内閣が打ち出した所得倍増計画(10年間で国民総生産・国民所得ともに倍増させるために年9%の経済成長率を維持する)を上回り17年間も年平均11%の成長率を維持する、まさに高度経済成長期に入りました。 この頃になると都市は拡大基調に入り、東京は東日本中心に、大阪は西日本中心に地方の人々を集め「人・物・金」の集積をする事によって産業経済効率の向上が図られました。  毎年11%もの成長は核都市のみでは集積しきれず、周辺地域へのドーナツ化現象を派生し、次々と衛星都市を生んで行きました。 駅に近い所から宅地開発され、人口も拡大基調に入りました。 市場や商店街などの商業施設も出来活況を帯びるようになりました。  某市の市場内の店で玉子のみで豪邸とヨットを所有する人が出てきたと言われたのもこの頃の事です。 人口増加に従って学校や住宅、道路等の公共施設の拡張、民間工場や住宅の新築やそれに伴う各種設備・備品の導入など、世の中の雰囲気は永く続く拡張基調に包まれて前へ前へと進み、活発な設備投資は身の回りの景色を瞬く間に一変しました。
昭和40年代に入っても、若干の景気変動はあるものの、一段と盛になった海外輸出に先導された拡大基調は続きました。  
Sony、Panasonicなどの家電製品、Canon、Kyoceraなどの光学製品、Toyota、Nissan、Hondaなどの自動車製品、その他和製ブランドが欧米をはじめ世界中のウィンドウを席捲しました。 
国力を現す指標の一つである「国民総生産(GNP)」は米国に次いで世界第二位となり、明治維新・鹿鳴館の時代から、日清・日露戦争と続いた「坂の上の雲」の時代、ようやく「坂の上にたどり着いた」と勘違いした太平洋戦争の時代を経て、多くの国民が世界に対して多少の自信を持つ事が出来るようになった時代です。   地方から都市への人口移動は、それまで出生地に固定されていた生活価値基盤を開放し、労働力、資本とも「より効率的な場所を求めて移動が可能である事を知らしめ、都会に集まった労働力の反対方向に資本は移動して行きました。 
その為、高度経済成長期の盛んな時期には地域間格差、階級間格差は縮小され「総中流意識」が国民全体を覆うようになりました。  この移動した世代の子供世代が独立しようとする時期(平成初期)、地域間の障壁はますます低くなっています。
 
高齢化を迎えた親の世代は子供世代が近くに住まうことを願いますが、自分達世代の移動実績からして強く言う事は出来ません。
そうすると自由な都市間の移動条件が整います。 
そして「ジップの法則」に従って第一位(東京8,397千人)の1/2の人口の第二位(横浜市3,560千人)、1/3の第三位(大阪市2,634千人)という東京一局集中による地域間格差の常態化した現代を迎えました。
 事態の良否は後記するとして時代を少し戻します。
【オイルショックと低成長期】
昭和48年(1973年)第四次中東戦争の勃発により、OPEC(アラブ石油輸出国機構)加盟国は原油生産の削減、原油価格の大幅引上げ (1バレル当り3.3ドル→10.8ドル)などの石油戦略を打出したことにより、「第一次オイルショック」が引き起されました。  エネルギーを主体に各種の化学製品の原料になっていた石油の78%を中東に依存(224/289百万kl.)していた我国では、まさに多くのショック状態を呈し、ガソリンスタンドの休日営業や深夜放送の中止、洗剤やトイレットペーパーを求めてのパニック状態も起りました。  翌49年には消費者物価指数は23%上昇し、経済成長率は戦後初の−1.2%となり、これ以後日本経済は昭和61年まで、年平均3.8%と高度経済成長期とは比較にならないまでも、それなりの伸びを示す低成長期に入りました。  我国の石油への依存度はその後原子力や自然エネルギーに代替や省エネの努力がなされ、昭和60年には年間200百万kl.を切るようになりましたが、平成に入って消費量はまた暫増に転じ、近年では250百万kl.を超えております。   石油ショック以後激しいインフレ不況を経験した我国経済は、減量経営と省エネ技術の開発を生き残りをかけて行った事により、国際競争力は他国に先駆けて高まりました。  この事は米国や欧州諸国の経常収支の赤字拡大とともに、国際的な経常収支を是正すべく、円高圧力を生む環境が高まりました。
大正 9 1920 第1回国勢調査
大正14 1925 伊・独・ソ独裁者権力掌握
昭和 6 1931 満州事変
昭和11 1936 2.26事件
昭和15 1940 日・独・伊三国同盟
昭和20 1945 第2次大戦終戦
昭和21 1946 日本国憲法公布
昭和23 1948 韓国・北朝鮮 国成立
昭和24 1949 中華人民共和国成立
昭和25 1950 朝鮮戦争勃発
昭和26 1951 日米安保条約締結
昭和27 1952 硬貨式公衆電話登場
昭和28 1953 NHK TV放送開始
昭和29 1954 ニッポン放送開局
昭和30 1955 ワルシャワ条約、冷戦激化
昭和31 1956 日本 国連加盟
昭和32 1957 百円硬貨、5千円札発行
昭和33 1958 インスタントラーメン初売
昭和34 1959 皇太子・美智子妃ご成婚
昭和35 1960 ダッコちゃん大ブーム
昭和36 1961 池田内閣所得倍増計画
昭和37 1962 キューバ危機
昭和38 1963 名神高速道路初開通
昭和39 1964 東海道新幹線開業
昭和40 1965 ベトナム戦争北爆開始
昭和41 1966 人口1億人突破
昭和42 1967 阪急自動改札機初導入
昭和43 1968 国民総生産世界第3位
昭和44 1969 東名高速道路開通
昭和45 1970 大阪万博開催6421万人
昭和46 1971 ニクソン・ショック
昭和47 1972 沖縄返還、連合赤軍
昭和48 1973 第4次中東戦争オイルショック
昭和49 1974 セブンイレブン1号店開店
昭和50 1975 山陽新幹線開業
昭和51 1976 ヤマト運輸「宅急便」発売
昭和52 1977 「トイランド宝島」創業
昭和53 1978 日中平和友好条約調印
昭和54 1979 消費税選挙、自民敗北
昭和55 1980 HP社初のパソコン発売
昭和56 1981 IBM社DOS搭載PC発売
昭和57 1982 NEC社PC-9801発売
昭和58 1983 任天堂ファミコン発売
昭和59 1984 株価1万円大台突破
昭和60 1985 プラザ合意、バブル景気
昭和61 1986 ドラゴンクウェスト発売
昭和62 1987 世界人口50億人突破
昭和63 1988 NTT携帯電話サービス開始
平成元 1989 消費税開始、税率3%
平成 2 1990 バブル景気崩壊、花博
平成 3 1991 湾岸戦争、ソ連邦崩壊
平成 4 1992 週休2日制スタート
平成 5 1993 冷夏、米不足、Jリーグ
平成 6 1994 プレステ、セガサターン発売
平成 7 1995 阪神・淡路大震災
平成 8 1996 国内ホームページ急増
平成 9 1997 消費税3%→5%
平成10 1998 北鮮テポドン三陸沖着弾
平成11 1999 0金利政策実施
平成12 2000 SPEED引退
平成13 2001 小泉内閣発足、NYテロ
平成14 2002 完全週5日教育スタート
平成15 2003 米英軍イラク進攻
平成16 2004 スマトラ島大津波
平成17 2005 愛知万博、郵政選挙
平成18 2006 世界人口65億人突破
平成19 2007 参議院選、自民大敗北
平成20 2008 北京オリンピック
平成21 2009 米国新大統領就任
平成22 2010 国勢調査
平成23 2011 アナログ地上TV放送終了
平成24 2012 世界人口65億人予測
【円高→バブル景気→バブル崩壊】
そんな中、昭和60年9月米国プラザホテルに日、米、英、西独、仏の5ヵ国が集まり、ドル高是正の協調介入をする事で合意(プラザ合意)したのですが、9月当時1ドル=237円であったものが翌61年8月には1ドル=154円と予想以上に円高・ドル安が進み、貿易に頼る我国経済は綿製品、鉄鋼、自動車、半導体などの輸出産業を中心に一気に不況となりました。 これらの貿易摩擦を解消し輸入依存型の経済体質を改善する為、輸出企業は海外現地生産を積極的に取入れ(これが後の産業空洞化に結びつきます)、政府は内需の掘り起こしのため貸し出し金利の低金利政策に加え公共投資6兆円を打ち出しました。  さらに米国債などのドル建て資産に含み損が発生し、国際資金が為替リスクのない日本に向かいました。 そして国内に潤沢に回った資金は投機熱を生み、特に(日経平均株価は昭和62年初2万円弱→平成元年末4万円弱)と土地への投資が盛になりました。  中でも土地は間違いなく値上がりするという土地神話に支えられて高騰し、昭和63年末の地価総額は列島全土で1842兆円に、対して全米地価総額は403兆円と4倍以上にもなりました。   金融緩和の結果、企業には20兆円もの余剰資金が出ていたと言われ、余ったお金は本来の生産活動には向かわず、主に土地投機に向かう所謂バブル(泡沫)景気平成2年までの数年間も続き、この時人々は「坂の上の雲」に追付き、追越した(錯覚?)と多くの人達が感じました。 大変な地価高騰は庶民の社会的な生活、住生活を脅かすものとなりました。 マイホームは平均的なサラリーマンの年収の8倍(妥当は5倍)を超えてしまい、政府は是正の必要性に迫られました。  そして平成元年には金融引き締め政策に転じ、公定歩合は史上最低の2.5%から翌2年には6%に急激に上げられました。 金余りが解消されると対価としての土地や株資産価値は下落しはじめ、元々バブルに支えられていた株価は平成2年に入ると急落し、39千円あった株価も15千円弱と惨憺たる状態となりました。 一転して下落した地価は止まるところを知らず、たちまちにしてバブル景気ははじけ飛んでしまいました。  バブルの崩壊で土地資産、株式資産はピーク時から1000兆円(これだけ膨大な損失を被った人達はだれであるかは比較的簡単に判明するでしょうが、その逆の立場に立った人達は膨大な利益を得た訳であり、それが誰となるか?は野次馬根性ながら大変興味のあるところです)も下落したと言われ、銀行や民間企業の抱える不良債権資産は想像も出来ない程になり、日本経済は底無しの不況に見まわれました。 税収も減少し、政府の財政赤字は急速に膨らみました。  少子高齢化が顕著になってきた平成に入って以来、国内需要の低下、労賃の暫増、円高(平成2年、160円→7年、80円)などにより輸出産業の国際競争力は大きく低下していました。  朝鮮戦争特需以来「貿易立国」として、その経済基盤を求めてきた我国は輸出産業を中心として「安価な労働力」「直接市場への接近」「為替相場との乖離」また「貿易摩擦の解消」などの諸利益を求めて、生産拠点を海外に移転する日本企業が大変多くなりました。
【産業の空洞化・高齢化社会】 
そして「産業の空洞化」と言われる海外への生産シフトの移転が盛に行われる現象が続き、輸出の減少、国内生産量の減少、一部工場の閉鎖、雇用機会の減少という直接の経済活動の減少による都市活動の停滞のみならず、我国が国際競争の場で最も優位性を発揮出来る「製造工程技術のネットワーク」(企業城下町や下請企業、また電子製品や電化製品に代表される部品製造の分業化や融通のし合いなど世界に優位する高度で効率的な製品化技術システム)にマイナスの影響が出て来るのではないかとの心配が出てきています。 この「空洞化」の問題はわが町高槻市においても現在進行形で続いており、「高齢化」と共に「自治と住民自身の各々の生活の変革と対処」を必然的に迫る問題として大きな課題となります。 産業空洞化かどうかは定かではありませんが、すぐ近くの湯浅コーポレーション梶Aムネカタ梶A住友建機梶Aトポス(ダイエー系)、サティ(旧ニチイ)高槻店などの各社さんも当地における規模を縮小されています。  その跡地は工場施設→商業施設→マンション宅地という流れになっています。  駅前マンションは山の手の1戸建住人で高齢になられた人が病院や買い物に便利なため移住される人達が多いと聞きます。 
これらの現象を私達はどう捉えたらいいのでしょうか? 産業や経済という公的・社会的要素の強い部分については他人事の様に感じられます。 しかし、それがすぐ近くの目に見える景色の変化として意識された場合、また毎日の買い物施設やご近所さんの生活の変化を現実に体験した場合、私達はまず今まであつた姿を思い浮かべます。  そして、その人達が次にどうされるのか確認します。 さらに自分達の将来に結び付けます。 この一連の心的作業はまさに私達が社会的な存在であり、その事に影響されずに独自の生活が出来ると言うことはありえない事を如実に示しています。 「産業空洞化」の問題は確かに国家レベルでは貿易黒字を縮小し、地方レベルでは税収の停滞、雇用機会の縮小などのマイナス要素を含んでおり、政治が政策介入するべきかどうかの議論を呼んでいます。 しかし、これは民間企業個別の経営判断に基づく資本(人・物・金・技術等)の配置の問題であり、さらにその経営基盤となる民間企業ネットワーク集団としての作業結果が国際競争力に耐えうるかどうかの問題として位置づけると、もし福祉優先等の行政によるマイナス面にフタをするだけの政策を実施したとすると将来に禍根を残す結果を残すと思われます。 ここで高齢化とある程度関係してきますが、もう一度「産業空洞化」の因子にさかのぼって見ると、海外の低賃金、低物価の問題(※その他原料調達、市場接近、貿易摩擦等の因子はここでは除外)は、現地に製造工場を設ける企業にとって、価格面での国際競争力を高めることになり、その事によって国際的な生存競争に生き残ることが出来、結果的に国際的な企業(国内資本と従業員+現地資本と従業員を有する)としての存在が可能であったと考えられないでしょうか。 確かにプラザ合意以後、海外直接投資は活発になり、以後数年間で国内生産額は約4兆円、雇用は約20万人減少したと言われます。 しかし、この海外投資が無かったなら、国際競争力の点でさらに厳しい数字が出たことは充分考えられます。 そして現在「海外工場では量産品の製造」、「研究開発品、高付加価値品の製造は人材と企業ネットワークを利用して国内で」という立地条件による住み分けがハッキリして来ております。 ただ、この技術力と総括して言われる我国の立地条件の優位さも時とともに海外に追付かれつつあるのが現状です。 我国の技術力を保つ人材は量産品製造ラインの海外移転にともなって、高賃金の熟練者を多く失いました。 さらに、高度成長期から中心を担ってきた団塊の世代は大量に退職期を迎えています。 これらの人達は我国産業の強さである「基本技術(主として欧米で開発)を製品に応用して、効率的に安く作られる製造工程技術と、様々な技術を複合して新たな製品を作る製品化技術が卓越している事、さらにその個々の技術を、これまた高度な技術水準を持つ下請けや分業のネットワークによって支える」ことにより世界第2位という経済大国に押上げた主力部隊でした。 たしかに、刻々と変る世界の経済環境は絶えず革新を求め、過去の実績は必ずしも将来の戦力となるとは限りません。 しかし事技術に関してはミクロの単位になればなるほど経験と勘が頼りになる世界です。 つまり、知識と熟練が必要となります。   戦後60年間に渡って我国の経済を支えて来た、高品質の技術力とそれを維持する為の妥協を許さない価値感、さらにはそれを市場化する社会が見事に一致して世界に伍して来ました。 製造業のみならず、この国の衣・食・住・インフラ建設・情報・運輸・医療・公務・その他各種に専門分業された人々が社会を構成し、その屋台骨を支えて来ました。 今その主力部隊は次代に引継ごうとしています。 この次世代は大量生産、大量消費経済社会に育った人達です。 前世代とは多少価値感が違うのも致し方ありません。 その事が我国全体の技術力、国際競争力をまた違った方向(例えば優れた情報収集力、解析力、また、それらに裏付けられる企画力を利用した我国本社機能)に向かわせ、そこから新しい胎動が現れる事も期待されます。 しかし「団塊の世代」と言う史上最もパワーを持った人口集団が、はたしてこのまま静かに刀を置く時なのでしょうか?  またそれが許される社会環境なのでしょうか?  高齢化という事はその後長く社会に存在する事である(日本人の平均寿命は82歳となり、伊・豪・北欧諸国の80歳を越えて世界でトップとなりました)とすると、嘱託社員で長く残る事にも無理があり、かといってボランティアに存在価値を求めるにも実績・経験とのミスマッチが出やすくなり、また任意責任で良いのかと言う課題遂行上の曖昧さは免れません。 職務契約としての給与面でその中間を採って「嘱託+ボランティア」と言う最低賃金制の緩和があれば、高齢者を含む職掌段階区分(パートという時間管理制とは違った)に何か新しい動きが出てくるように思われますが、社会的なコンセンサスは如何でしょうか?
【未来社会】
 もう一度右上の年代表を見てください。 第二次世界大戦後の主な社会的出来事を記しておりますが、毎年、社会的変革を象徴する出来事があり、列記出来ないものも多くあります。 それだけ社会は激動期を過ごしたという事になります。 それ以前の時代の近隣社会ではあまり他人情報に立ち入るのは不躾であると嫌われ、ファジィな情報のもとに、その行動も奥ゆかしさがあり、時間も比較的緩やかに流れていました。 対して戦後の物質文明社会は現実の具体的情報を必要とし、それが得られた分だけ行動範囲は拡がり、さらにPlan do see(計画→実行→見直し)の連続が多くの時間を必要としました。 高効率ではあるが、細やかさを必要とする水耕栽培を生業として来た私たち農耕民族として強く受け継ぐ「精密志向」の遺伝子は、団塊の世代という爆発的なパワーを得て一つの時代を築いてきました。 それが次の時代に移ろうとしている今、どれ程の遺産を遺そうとしているのでしょうか? 「情報が強い力となる」という事は間違いなく引き継がれるでしょう。 その意味では「文・精神」→「武・物」→「文」と歴史のたどって来た道を繰り返します。 そこで問題は「情報」と言うそれ自身が架空の存在は、それのみでは生きることが出来ず、何か実在の物とセットされて始めて生きて来るという事です。 したがって、我国の今後を占うには何とセットしてゆくのかという事がキーポイントとなるのは間違いないでしょうが、この半世紀は欧米諸国の合理主義・実存主義から派生されたモノとセットして来ました。 次の時代は「食物」というモノは不足して来るでしょうが、過去の歴史は食物の不足は数多く経験して来ました。 そしてその時に多くの犠牲を払いながら、最終的には人類の叡智を働かせて「忍耐・互助・自然崇拝」等の精神文化を深めてきました。 その事は、私達が物的遺産を遺すことにあまり意味を持たないという事を示していますが、では私達は次の時代の人材を育ててきているのでしょうか? いずれその答えは少しづつ判明してくると思われます。
 ☆物価の変化 
ガソリン 水道料 ガス料 タクシー 新聞料 納豆 ビール 米(1表) 鶏卵 牛肉 そば 月 給 消費者物価
明治40年 1905年 - 35 18 - 45 3 20 472 50 18 3 11 0.62
大正10年 1921年 40 60 15 90 50 10 40 1420 80 40 7 45 1.29
昭和10年 1935年 15 60 15 28 90 5 40 1090 85 35 10 50 1.00
昭和25年 1950年 30 60 200 50 200 8 100 2,064 250 20 15 2,000 219.9
昭和30年 1955年 40 100 250 100 300 12 120 3,902 220 30 20 9,300 297.4
昭和50年 1975年 100 230 550 320 2,600 40 180 15,612 350 380 150 86,000 988.8
平成 元年 1989年 120 500 700 480 3,600 70 320 16,743 200 580 280 150,000 1649.9
平成 10年 1998年 966 1229 660 3,925 530 16,392 308 731 472 280,500 1849.2
平成 18年 2006年 903 1084 660 3,250 139 523 218 867 509
   ※地域により違いはありますが、代表的な価格として掲載しました。 消費者物価は日銀指数で昭和10年が基準年。    




















※ご近所さん、近隣社会について
 
最初の地図をさらにズームアップすると、ほぼ中心近くに「宝島」のある高槻市春日町があります。

※(ますます「私的領域」に近付いてきますので、自分達の地域とはあまり関係がないので見ても仕方が無いと感じられる方はホームへ
  お戻り下さい。でも、多少共通する部分があると感じられる方、または高度経済成長期に家族の一員が都市に移動された地域の方は
  逆方向の立場からしばらく読み進んで下さい。)


 最初の「人口の変化表」をもう一度ご覧下さい。  昭和40年代高度経済成長期、大阪と京都の中間に位置した高槻市は急激に人口拡大(主に西日本各地よりの転入)しましたが、昭和50年代に入ると一転して、転出する人が多くなりました。 さらに平成10年代に入ると毎年2千人近くもの人口の減少があります。 しかし、そんな中でも、団塊の世代及びそのジュニア世代(各3万人強)の構成比はますます高まっており、そのまま高齢化社会に突入する気配を示しています。 
 さらに絞り込んで、地元の定義を城南中学校区とするならば、次のような人口・世帯になります。
  ○春日町(1109→1101世帯、2727→2592人)   ○若松町( 540→536世帯、1413→1310人)
  ○城南町(2245→2257世帯、6044→5768人)   ○西冠 (1293→1348世帯、3367→3377人)
  ○4町合計 (5187→5242世帯、13551→13047人) 
  核家族、高齢化社会のパターンです。
   ※上記数字は左側が平成13年9月末、右側が平成17年9月末の資料です。

 町別の年齢階層人口の資料が見つからなかったので、この地の傾向を現す数字はありませんが、眼で見ても明らかに高齢化が進んでいます。 最近定年退職をされた方の話は大変多く聞きます。
 阪急電鉄の高槻市駅乗降客のうち定期券利用者の数が毎年千人単位で減少し、この地区をつなぐ京阪バスの乗降客も毎年数千人単位で減少しているのは、明らかにこの地区からの通勤者が減少している事を裏付ける資料と考えられます。  現状高槻市は団塊の世代の構成比が高いだけに高齢化率は全国平均に比べても僅かに低くなっていますが、今後10年、20年と経つにしたがって他を圧して高齢化率は高くなって来る事が予想されています。 そうした中でシルバー世代の社会参加がどう進むのか? またシルバー産業がどの様に展開するのか? が課題になってくると思われます。
 高槻市は大阪府内でも有数の市域面積をほこり、北部は摂津丘陵の北端部で広大な山林地帯を有します。 
ここに森林センターや水耕栽培の農園(ハイポニカシステム)があります。 此処にはいずれ訪れる食糧難の時代の一つのヒントがあるように思えます。 一方、市南部では昭和40年代から地盤を築いて来た商工業の施設、そして関西が伝統的に強い産業(繊維、鉄鋼、機械、金属、化学工業)の担い手であった人達が住まいします。 いづれもが世界経済をリードし、多少とも現在の技術の基盤となった存在です。  そうした部分や人材の再利用の方法が必ずあると思われます。   情報産業を中心に東京圏への一極集中の流れはありますが、多様な国土と人材の利用と言う点では問題があります。
 今後の世界は化石燃料や水資源の枯渇等の問題、さらには人口爆発、食糧難の時代を控えて、効率化のみを追求する都市集中化は、逆に重荷となる可能性も出てきます。
 高齢化と流れを一つにする「少子化」の傾向も顕著に現れています。 
高槻市の 平成2年14歳以下の人口は65,463人(18.2%、全国平均も18.2%)、 平成12年では49,160人(13.8%、全国平均14.6%)、 平成17年47,313人(13.4%)で、今後はこのまま安定して13%前後で推移すると予測されております。 私達「宝島」ではまずこの「少子化」の影響をもろに受けました。  平成元年当時から比べると売上高は半減し、特に幼児・男児・女児玩具は全くと言ってよいくらい売れなくなりました。 もちろん、外資系大型店のメーカー直仕入れによる安売りの影響もあり、私達の経営努力不足の面も多々ありますが、当地の児童生徒数は半減し、小学校統合の話も持ち上がるぐらいでした。 ただ、このまま安定して推移するという事は、年少者市場も安定していると考えられ、駄菓子、玩具、その他商品の供給側メーカーでも安定生産が見込めると予測されます。 こうした経営環境の変化をどの様に明日に繋げて行くかを問われています。
 ご近所さんで誇れるものとして、
協和とともに「JT生命誌研究館」があります。 JR高槻駅より徒歩で北西約10分のJT医薬総合研究所内にあります。 生物を歴史的にとらえ、遺伝子研究等基礎科学を研究する施設ですが、一般にも展示館として開放されており、無機的な科学研究と心を結びつける努力をされています。 分野の第一人者を集めた大変なスタッフを擁した施設ですが、その様な立派な施設が「なぜ高槻に?」という疑問を含めて同館のHPを一見して下さい。 何れも生命を基礎の部分からとらえて行動されている事に尊敬の念を抱きます。
       
       高槻市中心部:中央の森は城跡公園と第一中学校、その真上に阪急高槻市駅、右上の緑地は京大農場、写真には入りませんが右下に宝島があります。
【未来の都市は?】

 私達の住むこの「日本社会の最近の動向とこれから」について、近くの少し高い山に上がったら展望出来そうな地方都市の資料単位にズームアップして鳥瞰して来ましたが、今から僅か100年程前、近世の江戸末期から明治初期には我国総人口は35百万人、高槻市(当時高槻村)でも3千人弱の規模でしかありませんでした。  大部分の地方の都市もこの程度であったのではないでしょうか。 現代の町単位の規模で都市が運営されていた事になり、人口密度は稀薄でしょうが、自給自足の経済に基づく生活情報の密度は高かった事が想像されます。  そして、地域がまとまり、同様の価値感をもって行動したのが父祖の時代でした。  やがて「坂の上の雲」の時代を経て、欧米列強に追付くべく「工業化→効率化→都市集中」の高度成長期があり、今逆に少子高齢化という生産年齢縮小期を迎えています。 先行きは決して楽観できないですが、時を少し戻して見ますと、この国は何十倍もの規模で拡大して来ました。  ここしばらく多少の縮小があったとしても100年も以前のレベルに逆戻りする訳ではありません。  かなり楽観視して見るならば、規模縮小に対する補償行動としての情報の密度と質の高い社会を迎え、世界に伍して行くとするならば、歓迎出来る部分も多々あると思われます。
「現代の専門分野に
特化された情報の集積社会→将来の生きる為のヒューマン情報集約社会」へ、どの様に合意形成を図っていくのか? 逆に地域的には「集中ポイント→分散ポイント」に広がる物理的な非効率さを、どの様なインフラをもって吸収していくのか?  
そんな視点から、これからの世の中がどの様な着地点を求めて進むのか?共に垣間見る事が出来たら幸いです。

















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